なぜ人を殺してはいけないか?
最近、少年犯罪による殺人事件があったことにより同様の問に対する各人の考えがWEB上によく見かけるようになった。
この問題に対して考えてみよう。
「~してはいけない」ということは一体どういうことなんだろうか。
一般的には法律によって取り締まられている事柄をさすだろう。
ではなぜ法律によって規定される必要があるのか。
例えば、法律が存在しない生物ではどうなるだろう。
チンパンジーで考えると、
チンパンジーの目的は自己の生存と繁殖が本能となるだろう。
繁殖相手であるメスを見つけると、例えば相手が警戒しているからといって攻撃をすることはないだろう。
目的は繁殖活動であるので、己の力を誇示して繁殖を行うこともある。
繁殖が成功すれば、メスが子を産み育てるだろう。
ここで重要なのは、同種を栄養にすることに対するリスクとリターンだろう。
同種であれば、ほぼ同じ形の為に力関係が圧倒的に優位になるとは考えられないので、場合によっては自分が殺されてしまうリスクがある。
それによりチンパンジーなどの哺乳類は栄養として同種を殺す場合は非常に少ない。
では、子供の様な弱い存在の場合はどうなるのであろうか。
子供が自分の子である場合は繁殖という本能に対する行動に反する行動なので、自分の子を殺すことはない。(DNA情報が近い場合に性交を忌避する行動に作用するようなホルモンの影響だと考えられる)
他のオスの子で会った場合はどうだろうか?
他のオスの子の場合は殺すことがよくある。これはチンパンジー社会では容認されている行動なのである。
なぜ人間社会では同様に容認されないのであろうか。
原始的な人間の社会ではもしかすると容認されていたのかもしれない。
殺人が自然的に禁忌とされていくプロセスは、自己発達する社会システムの要請なのかそれとも情緒的な問題の副次効果なのかが重要であると考える。(「自己発達する社会システム」という考え方は極限思考において重要な点になるので、今後とも留意して行きたいと思う)
自己発達する社会システムではどうなるのかというと、人間が進化していく過程で部族間の競争が発生する。その際に部族として生き残るには、まずは人口だろう。人の数が直接的な部族の力となる。次に技術という点だ。槍だけで交戦する部族に槍以外に弓矢も利用する部族では、後者の方が部族の力が大きいと言えるだろう。
その点を加味すると、自分の以外のDNAを持つ子であっても部族の人口を支える糧となる。
次に、多様性という点においてDNAが遠い子を持つ部族の方が技術発展が進む場合がある。
それは強靭な肉体を持つDNAのみが選択される訳ではなく、人間という種においては高い知能を持つDNAの選択も選択される結果であろう。(高い知能を持つDNAが選択される事によって弓矢や道具などの技術が生み出されるという前提である)
情緒が影響する場合には、人間が知能を得ていく上でコンフリクトが生じる場合がある。知能がない生物にとっては、単なる障害なので一次的な反応しか示さない。(あるものから忌避するなど)
しかし、知能を持つ人間の場合には自ら産んだ子を保護しようとする本能が働く、その際に力を持った人間が子を殺せば、情緒的な作用により拒絶や逃避または自ら死を選ぶことで力を持った人間の子を作る事を拒否する場合があるだろう。
さらに、知能の効用として感情の予測がある、他者に起こったことであっても自らと同等に考える追体験をする結果、同情という現象が集団に発生することになる。
これらのことから強い部族を形成するには、自然法としての殺人に対する規制が働くと考えられる。
上記の二点がどちらが優位に働いて、自然法を成り立たせているかはわからないが、このような作用によって人間という種においては殺人という事象が禁忌とされていったのではないかと考える。
以上を第二回の極限思考としてみたい。
もしよろしければ、気軽にあなたなりの考えをコメントして下さい。